日露関係

 
1992年版
   共同作成資料集   


序文


    
この資料集は、日露両国国民が、日本とロシアとの間の「領土問題」を正しく理解するための一助として、日露両国外務省が共同で作成したものである。
    クリル諸島への日本人の進出が南から、ロシア人の進出が北から行われた結果、19世紀半ばまでに択捉島とウルップ島との間に日露の国境線が形成された。1855年2月7日付けの日魯通好条約により、この国境線が法的に画定され、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島は日本領、ウルップ島以北の諸島はロシア領として平和裡に確定した。
    1875年5月7日付けの樺太千島交換条約により、樺太全島における日本の権利と引き替えに、ウルップ島からシュムシュ島までの諸島が、ロシアから日本に平和裡に譲与された。
    1895年6月8日付けの日露通商航海条約の締結時に1855年条約は効力を失ったが、同時に、1875年の樺太千島交換条約の効力が確認された。
    1905年9月5日付けのポーツマス講和条約に従い、ロシアは日本に北緯50度以南の樺太南部を譲与した。当時の日露両国の文書に照らして見れば、1855年の日露国交樹立以降、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の帰属がロシアにより問題にされたことは一度もなかった。
    日本とソ連邦が外交関係の樹立を宣言した1925年1月20日付けの日ソ関係の基本法則条約において、ソ連邦は、1905年のポーツマス条約が有効である旨同意した。
    1941年8月14日付けの英米共同宣言(大西洋憲章)~ソ連邦は同年9月24日に参加~においては、米国及び英国は「領土的その他の増大を求めず、また「関係国民」、 の自由に表明せる希望と一致せざる領土的変更の行わるることを欲せず」と述べられている。
    1943年11月27日付けの米国、英国、中国のカイロ宣言~ソ連邦は1945年8月8日に参加~においては「同盟国は自国のために何等の利得をも欲求するものにあらず、また、領土拡張の何等の念をも有するものにあらず」と述べられている。同時に、同宣言では、連合国の目的は、就中「暴力及び貧欲により日本国が略取したる地域」から日本を駆逐することにある旨述べられている。
    1945年2月11日、米英ソ三国の首脳により署名されたヤルタ協定は、ソ連邦の対日参戦の条件の一つとして「ソ連邦へのクリル諸島の引渡し」を規定した。ソ連邦は、ヤルタ協定により、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島を含むクリル諸島のソ連邦への引渡しの法的確認が得られたと主張していた。日本は、ヤルタ協定は領土の最終的処理に関する決定ではなく、また当事国でない日本は法的にも政治的にもヤルタ協定に拘束されないとの立場である。
    1945年7月26日付けのポツダム宣言~ソ連邦は1945年8月8日に参加~は、 カイロ宣言の条項は履行されなければならず、また、日本の主権は本州、北海道、九州及び四国並びに連合国の決定する諸小島に限られる旨を規定している。日本は、同年8月14日、ポツダム宣言を受諾し降伏した。
    1941年4月13日署名の日ソ中立条約により、日ソ両国は領土保全と不可侵を相互に尊重し合う義務を負っていた。同条約はまた、5年間効力を有する旨、及びいずれの一方も有効期限満了の1年前に廃棄通告をしない場合には、自動的に5年間延長されたものと認められる旨、規定していた。
    1945年4月5日のソ連邦による廃棄通告により、同条約は1946年4月25日に失効することとなった。ソ連邦は1945年8月9日、日本に対し宣戦布告を行った。
    ソ連邦は、8月末から9月初めにかけて択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島を占領した後、1946年2月2日付けの最高会議幹部会令で、これらの島々を当時のロシア・ソヴィエト社会主義連邦共和国に編入した。
    1951年9月8日署名のサン・フランシスコ平和条約は、日本がクリル諸島及び南樺太に対する権利、権原及び請求権を放棄することを規定している。しかし、同条約は、これらの領土がどの国に帰属するかについては規定していない。ソ連邦は同条約に著名しなかった。
    サン・フランシスコ条約で日本が放棄したクリル諸島の範囲については、日本の国会における西村条約局長の答弁(1951年10月19日、森下外務政務次官の答弁(1956年2月11日、同条約の起草国の一である米国の国務省による対日覚書(1956年9月7日)等において言及されている。
    ソ連邦がサン・フランシスコ平和条約に署名しなかったため日ソ間で別個の平和条約締結交渉が行われたが、領土条項に関する立場の相違から合意に至らなかった。
    そこで1956年9月29日付けの松本日本政府全権代表とグロムイコ・ソ連邦第一外務次官との間の往復書簡において、両国間の外交関係を回復した後に領土問題を含む平和条約締結交渉を継続する旨が了解された。上記書簡はまた、日ソ両国間の外交関係の再開と、日ソ共同宣言の署名への道を開いた。
    1956年10月19日付けの日ソ共同宣言は、両国間の戦争状態を終結させ、外交・領事関係を回復させた。日ソ共同宣言においては、日ソ両国が正常な外交関係の回復後、 平和条約締結交渉を継続すること、また、ソ連邦が平和条約締結後、歯舞群島及び色丹島を日本に引き渡すことに同意することが規定されている。同年12月5日、日本の国会は日ソ共同宣言を承認した。同年12月8日、ソ連邦最高会議幹部会は日ソ共同宣言を批准した。批准書の交換は、同年12月12日、東京において行われた。
    1960年、新日米安保条約の締結に際し、ソ連邦は歯舞群島及び色丹島の返還の前提として、日本領土からの全外国軍隊の撤退という条件を新たに課した。これに対し日本政府は、両国の議会により批准された条約である日ソ共同宣言の内容を一方的に変更し得ない旨反論した。
    その後、ソ連邦の側からは、日本とソ連邦との関係における領土問題は第二次世界大戦の結果解決済みであり、領土問題はそもそも存在しないとの立場が述べられるようになった。
    1973年10月にモスクワで行われた日ソ首脳会談の結果発表された、10月10日付けの日ソ共同声明においては「第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して平和、、」。条約を締結することが両国間の真の善隣友好関係の確立に寄与する旨述べられている
    1991年4月に東京で行われた日ソ首脳会談の結果発表された、4月18日付けの日ソ共同声明においては、双方は「歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の帰属についての双方の立場を考慮しつつ領土画定の問題を含む日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約の作成と締結に関する諸問題の全体について」話し合いを行った旨述べられている。また、同声明では、平和条約締結作業の加速化の重要性が強調されている。
    1991年12月に独立国家共同体が創設され、日本によってロシア連邦がソ連邦と継続性を有する国家として承認された後、日本とソ連邦との間で行われて来た平和条約交渉は、日本とロシア連邦との間で継続されている。
    双方は、領土問題を「法と正義」に基づき解決する必要があるとの共通の理解を堅持している。
    1991年11月、エリツィン大統領は、ロシア国民への手紙において、日本との関係における最終的な戦後処理の達成の必要性を指摘しつつ、これらの島々の住民の利益に配慮していく旨述べている。日本政府も、領土問題の解決にあたり、現在これらの島々に居住しているロシア国民の人権、利益及び希望を十分に尊重していく意向である旨明らかにしている。
    日本及びロシアの読者に供される本資料集には、二国間の領土確定に関する日露、日ソ間の基本文書及び本問題と関係のある一連の他の文書及び資料を収録した。

1992年9月

日本国外務省
ロシア連邦外務省


北方領土問題に関する日露共同作成資料集

(目次)



    1.1855年以前の歴史
        (1)正保御国絵図(1644年)
        (2)コズィレフスキー「海島図(1713年) 」
        (3)ムロフスキー大佐への海軍省幹部会訓令(1787年)
        (4)18世紀末~19世紀初頭の日本の北方4島における実効的支配
        (5)アレクサンドル1世のウルップ以北での外国人の商業・漁業活動の禁止に係わる勅令(1821年)
        (6)ニコライ1世のプチャーチン提督宛訓令(1853年)
        (7)日魯通好条約第2条(1855年)
    2.1905年まで
        (1)樺太千島交換条約第2款(1875年)
        (2)日露通商航海条約第18条及び附属宣言(1895年)
        (3)ポーツマス講和条約第9条(1905年)
    3.第一次世界大戦後から第二次世界大戦直後まで
        (1)日ソ関係の基本的法則に関する条約第2条及び声明書(1925年)
        (2)大西洋憲章(1941年)
        (3)大西洋憲章への参加に関するソ連邦政府宣言(1941年)
        (4)カイロ宣言(1943年)
        (5)ヤルタ会談における米ソ首脳発言(1945年)
        (6)ヤルタ協定(1945年)
        (7)ポツダム宣言(1945年)
        (8)日本政府のポツダム宣言受諾通告(1945年)
        (9)日ソ中立条約(1941年)
        (10)日ソ中立条約の廃棄に関するソ連覚書(1945年)
        (11)ソ連の対日宣戦布告(1945年)
        (12)連合軍最高司令部訓令( )第677号(1946年) SCAPIN
        (13)南サハリン州の設置に関するソ連邦最高会議幹部会令(1946年)
    4.サン・フランシスコ平和条約
        (1)サン・フランシスコ講和会議におけるダレス米国代表発言(1951年)
        (2)サン・フランシスコ講和会議におけるグロムイコ・ソ連代表発言(1951年)
        (3)サン・フランシスコ講和会議における吉田日本代表発言(1951年)
        (4)サン・フランシスコ平和条約第2条及び第25条(1951年)
    5.日ソ国交正常化交渉及びそれ以降
        (1)松本日本国政府全権委員からグロムイコ・ソヴィエト連邦第一外務次官にあてた書簡(1956年)
        (2)グロムイコ・ソヴィエト連邦第一外務次官から松本日本国政府全権委員にあてた書簡(1956年)
        (3)日ソ共同宣言第9項(1956年)
        (4)ソ連政府の対日覚書(1960年)
        (5)日本政府の対ソ覚書(1960年)
        (6)日ソ共同声明(1973年)
    6.ゴルバチョフ・ソ連邦大統領訪日及びそれ以降
        (1)日ソ共同声明(1991年)
        (2)エリツィン・ロシア大統領のロシア国民への手紙(1991年)




1.1855年以前の歴史

    (1)正保御絵図(1644年)

    徳川幕府が松前藩から提出された領地図を基に作成した公式地図。国後島、択捉島、歯舞群島及び色丹島を記述した世界最古の地図である。手写、和紙、227.5×25.37センチメートル、秋岡武次郎氏蔵。

    (2)コズィレフスキー「海島図(1713年)」

    クナシル島。イトゥルップ及びウルップと同じ異国人が居住している。信仰は共通だが、言語が共通か独自のものかは不明。住民は、松前城のある松前島に通い、また松前島の方からも年に一度品物を持って来て交易を行っている。この島はイトゥルップ及びウルップよりも大きく、人口も多い。これらクナシル人が松前氏の臣下であるか否かについては十分な情報がない。イトゥルップ人及びウルップ人は思い通りに生活しており、誰にも服従せず、交易も自由に行っている。
    (「ロシア太平洋叙事詩」、ハバロフスク、1979年、453頁)

    (3)ムロフスキー大佐への海軍省幹部会訓令(1787年)

    ロシア初の世界一周探検隊の使命に関する、隊長ムロフスキー海軍大佐への海軍省幹部会訓令の抜粋(1787年4月)
    12、上記により、クリル諸島の記述のため先任将校を指名するにあたっては、その訓令において以下を命ずべし。
    (1)日本からカムチャトカのロパトカ岬に至るまで大小すべてのクリル諸島を周回の上記述し、これらを出来るだけ正確に地図の上に記入し、松前島からロパトカ岬までの島々を公式にロシア国の所有に加えること、その際、適切な場所に、来訪乃至獲得を記すロシア語及びラテン語の銘のある紋章を建立し又は取り付け、メダルを埋めること・・・
    (「18世紀後半における太平洋北部の調査に関するロシアの探検」、モスクワ、1989年、236頁)

    (4)18世紀末~19世紀初頭の日本の北方四島における実効的支配

    寛政十一年(一七九九年、幕府は蝦夷地経営に関し、命を南部・津二藩にへ、蝦) 輕傳夷の地は要害であるから、戌兵を必要とする時は藩に於て是を派遣すべき事、先づ本年兩津輕藩は箱館戌兵の中より熱練の士三人・足輕五十人・南部藩は熟練の士三人・足輕兩兩二十人を派遣し、三手に分って松平信濃守等に附属せしむべき事を命じたが、同年十一月二日、更に二藩に命じ、幕府の蝦夷地直轄中、重役三人・足輕五百人宛を派遣し、足輕兩十人に付三挺の鐵砲を持たせ、津輕兵は砂原以東、南部兵は浦河以東に勤番し、其警衛法は黒田・鍋島家の長崎に於ける例に従はせた。兩
    其後二藩は箱館に元陣屋を置き、南部藩は根室・國後・択捉に、津輕藩は砂原及び択捉の振別に勤番所を設けて警衛につた。文化元年(一八〇四年)四月、二藩に永久警衛に當任ずべき旨を達し、同二年(一八〇五年)には津輕寧親が連年蝦夷地に勤した功を賞し勞て、其封額を替めて七萬石格とし、同四年(一八〇七年)二月、幕府が西蝦夷地をも併せ管するに到るや、南部藩をして東蝦夷地を、津輕藩をして西蝦夷地を戌らしめた。同年露人の来件があり、ニ藩共に其戌兵を増し、又他の奥羽諸藩の兵卒をも派して是を援け冦事しめたが此事は之を後に譲る。是歳十二月、幕府は南部藩に七千、津輕藩に五千を貸兩兩して費を助けたが、同五年(一八〇八年)十二月、南部利敬の封額を昇せて十萬石とな經し、侍に任じ、津輕寧親を昇せて十萬石となし、四位下に叙し益々國務に精すべき從從勵旨を諭した。
    (北海道庁編「新選北海道史」 (1937年)第2巻、416-417頁)

    (5) アレクサンドル一世の勅令 (ウルップ以北での外国人の商業・漁業活動の禁止) (1821年9月4日)

    第1条ベーリング海峡から始まって北緯51度に至るアメリカ西海岸、同じくアリューシャン列島、及びシベリア東海岸、並びにクリル諸島、すなわちベーリング海峡から始まってウルップ島南岬北緯45度50分に至るまでの島々と港湾における商業、捕鯨、漁業並びにあらゆる産業は、ロシア臣民のみが従事することができる。
    第2条従って、いかなる外国船舶も前条で示されているロシアの支配下にある海岸及び島々に停泊するのみならず、それらに100イタリア・マイル以内に近付くことが禁止される。これに違反した者は全ての貨物を没収される。
    (ロシア帝国法律全集、第37巻、1821年、904頁)

    (6) ニコライ一世のプチャーチン提督宛訓令 (1853年) (抜粋)

    一八五三年二月二十四日皇帝陛下署名
    一八五三年二月二十七日第七百三十号

    長崎表及び御老中宛ての書簡(オランダ語訳付き)は本書に別添の行にて送付するが、嚢これらの内より重要な御老中宛ての書簡の内容につき、外務省として以下の通り説明しておくべきと考える。
    この書簡(長崎表宛ての書簡と同様、その写しを別添してある)においては、我々との通商関係開設に関する日本側への提案、及び追って指定する我々の商船(必要があれば軍艦も)に対する日本の港湾への寄港許可に関する提案の他、露日間の国境画定の要求も提示してある。国境問題に直ちに取り掛かるとの考えは、根拠のあるものと思われる。なぜなら、このことを通じ、我々はいわば日本人が我々と交渉に入ることを余儀なくさせ得るからである。他の場合であれば、彼らは自らの慣習により直ちにこれを回避し、否定的な回答を出すであろうが、国境を明確にしたいとの我々の要望は、彼らにとり拒絶し難いものである。正にこの問題を用いることで、我々は日本政府から一層の譲歩を引き出すことが出来る。
    この国境問題に関する我々の要望は、(我々の利益を揖なわない範囲で)可能な限り寛大なものであるべきである。 なぜなら、通商上の利益というもう一つの目的の達成こそが、我々にとり真の重要性を持つからである。クリル諸島の内、ロシアに属する最南端はウルップ島であり、同島をロシア領の南方における終点と述べて構わない。これにより(今日既に事実上そうであるように)我が方は同島の南端が日本との国境となり、日本側は択捉島の北端が国境となる。日本政府が予想に反してウルップ島に対し自らの権利を主張する場合には、先方に対し、この島が我々のあらゆる地図中でロシア領と記載されていること、また、アメリカ及びその種々の水域におけるロシア領を管轄する露米会社が、他の我々のクリル諸島と同様ウルップ島を支配下に置き、更には住民すら有していることは、その帰属についての最良の証拠をなすものであり、一般にこの島はクリル諸島における我々の領土の境とみなされている旨を説明し得よう。

    (7)日魯通好条約第2条(1855年)

    日魯通好条約

    安政元年甲寅十二月二十一日(西暦一八五五年第二月七日魯暦第一月二六日)於下
    田調印

     第二条今より後日本国と魯西亜国との境「ヱトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るへし「ヱトロプ」全島は日本に属し「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は魯西亜に属す「カラフト」島に至りては日本国と魯西亜国との問に於て界を分たす是迄仕来の通たるへし




1905年まで

    (1.)樺太千鳥交換条約第2款 (1875年)

    樺太千島交換条約

明治八年(一八七五年)五月七日「セント・ピータースブルグ」ニ於テ記名
明治八年(一八七五年)八月二十二日批准
明治八年(一八七五年)八月二十二日東京二於テ批准書交換

    第二款
    全露西亜国皇帝陛下ハ第一款二記セル樺太島(即薩島)ノ権理ヲ受シ代トシテ其後哈嗹胤二至ル迄現今所領「クリル」群島即チ第一「シュムシュ」島第二「アライド」島第三「パラムシル」島第四「マカンルシ」島第五「ヲネコタン」島第六「ハリムコタン」島第七「エカルマ」島第八「シャスコタン」島第九「ムシル」島第十「ライコケ」島第十一「マツア」島第十二「ラスツア」島第十三「スレドネワ」及「ウシシル」島第十四「ケトイ」島第十五「シムシル」島第十六「ブロトン」島第十七「チェルポイ」並ニ「ブラット、チェルポエフ」島第十八「ウルップ」島共計十八島ノ権理及ビ君主二属スル一切ノ権理ヲ大日本国皇帝陛下二譲り而今而後「クリル」全島ハ日本帝国二属シ東察加地方「ラパツカ」岬ト「シュムシュ」島ノ間ナル海峡ヲ以テ両国ノ境界トス

    (2.)日露通商航海条約第18条及び附属宣言(1895年)

    通商航海條約

明治二十八年六月八日聖彼得斯二於テ調印堡
同            年九月九日批准
同            年九月十日東京二於テ批准書交換

    第十八條
    本條約ハ其ノ寛施ノ日ヨリ締盟國二現存スル安政元年十二月二十一日即千八百五十五兩年一月二十六日締結ノ通好條約、安政五年七月十一日即千八百五十八年八月七日締結ノ修好通商條約、慶應三年十一月二十八日即千八百六十七年十二月十一日締結ノ新定約書及之ニ附属スル一切ノ諸約定二代ハルヘキモノトス而シテ該條約及諸約定ハ右期日ヨリ総テ無効ニキシ隋テ露西亜國力日本帝國ニ於テ執行シタル裁判権及該権ニ属シ又ハ其ノ一部トシテ露西亜國臣民力享有セシ所ノ特典、特権及免除ハ本條約寛施ノ日ヨリ別ニ通知ヲナサス全然消滅ニ蹄シタルモノトス而シテ此等ノ裁判管轄権ハ本條約寛施後二於テハ日本帝國裁判所二於テ之ヲ執行スヘシ

    同上附属宣言書ニ外交文書竝
    樺太千島交換條約ノ効力ニスル宣言關

    明治二十八年六月八日聖彼得斯二於テ堡

    本日締結ノ條約第十八條ハ千八百七十五年四月二十五日(五月七日)日本國皇帝陛下卜全露西亜國皇帝陛下トノ間二締結セラレタル條約及同年八月十日(八月二十二日)東京ニ於テ調印セラレタル附録ニ係ナキモノニシテ此ノ二種ハ依然効力ヲ有スルモノトス此ノ關尚旨下名二於テ宣言ス
    千八百九十五年六月八日(五月廿七日)
    聖彼得斯ニ於テ堡

    (3)ポーツマス講和条約第条(1905年)

    日露講和条約(ポーツマス講和条約)

    明治三十八年(一九〇五年)九月五日「ポーツマス」二於テ署名
    明治三十八年(一九〇五年) 十月十四日批准
    明治三十八年(一九〇五年) 十一月二十五日
    「ワシントン」ニ於テ批准書交換

    第九条
    露西亜帝国政府ハ薩島南部及其ノ附近ニ於ケル一切ノ島並該地方ニ於ケル一切ノ哈嗹嶼公共営造物及財産ヲ完全ナル主権卜共ニ永遠日本帝国政府ニ譲与ス其ノ譲与地域ノ北方境界ハ北緯五十度卜定ム〔後略〕


3. 第一次世界大戦後から第二次世界大戦直後まで

    (1)日ソ関係の基本的法則に関する条約第2条及び声明書(1925年)

    日本国及「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦との間の関係を律する基本的法則に関する条約

    大正十四年(一九二五年) 一月二十日北京二於テ記名
    大正十四年(一九二五年) 二月二十五日批准
    大正十四年(一九二五年) 四月十五日北京ニ於テ批准書交換

    第二条
    「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦ハ千九百五年九月五日ノ「ポーツマス」条約ヵ完全ニ効力ヲ存続スルコトヲ約ス千九百十七年十一月七日前ニ於テ日本国卜露西亜国トノ間ニ締セラレタル条約、協約及協定ニシテ右「ポーツマス」条約以外ノモノハ両締約国ノ政府間ニ追テ開カルヘキ会議ニ於テ審査セラルヘク且変化シタル事態ノ要求スルコトアルへキ所ニ従ヒ改訂又ハ廃棄セラレ得ヘキコトヲ約ス

    「ポーツマス」条約締結ノ責任ニ関スル声明書

    大正十四年(一九二五年)一月二十日北京ニ於テ署名

    「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦及日本国間ノ関係ヲ律スル基本的法則ニ関スル条約ニ本日著名スルニ当り「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦ノ全権委員タル下名ハ本国政府ニ於テ千九百五年九月五日ノ「ポーツマス」条約ノ効力ヲ承認スルコトハ同国政府ニ於テ右条約ノ締結ニ付前帝政府卜政治上ノ責任ヲ分ツコトヲ何等意味セサルコトヲ声明スルノ光ヲ有ス

    一九二五年一月二十日北京ニ於テ

    (2)大西洋憲章(1941年)

    英米共同宣言(大西洋憲牽) (抜粋)

    (一九四一年八月十四日)
    アメリカ合衆国大統領及聯合王国二於ケル皇帝陛下ノ政府ヲ代表スル「チャーチル」総理大臣ハ、会合ヲ為シタル後両国ヵ世界ノ為一層良キ将来ヲ求メントスル其ノ希望ノ基礎ヲ成ス両国国策ノ共通原則ヲ公ニスルヲ以テ正シト思考スルモノナリ。
    一、両国ハ領土的其ノ他ノ増大ヲ求メス。
    二、両国ハ関係国民ノ自由二表明セル希望ト一致セサル領土的変更ノ行ハルルコトヲ欲セス。

    (3)大西洋憲章への参加に関するソ連邦政府宣言(1941年)

    ロンドン同盟国会議における大西洋憲章への参加に関するソ連邦政府宣言(抜粋)

    (一九四一年九月二十四日)

    ソ連邦は、その対外政策において、諸国民の主権尊重という崇高な原則を遂行してきたし、又、遂行している。ソ連邦は、その対外政策において、民族自決の原則を指針としてきたし、又、指針としている。ソ連邦の国家体制の基盤となっている、その国家政策の全体を通して、ソ連邦は、国家の主権と平等の承認を基礎とするとの原則に立脚している。ソ連邦は、この原則にたって国家の独立と自国の独立と自国領土の不可侵に対する各国民の権利と自国の経済的及び文化的繁栄を保障するために適当であり、且、必要と認める社会体制を確立し、そのような政治体制を選ぶ権利を護している。擁
    ソ連邦は、全ての自国の政策及び他国民とのあらゆる関係においてこれらの諸原則を指針としつつ、首尾一貫性と決意を持って、諸国民の主権のあらゆる侵害、侵略と侵略者、諸国民に自分の意志をおしつけて彼らを戦争にまき込もうとする侵略国のありとあらゆる試みに、常に反対してきた。ソ連邦は、これらの諸原則の勝利と平和と諸国民の安全に対する闘争の有効な手段の一つとして、侵略者に対する集団行動の必要性を弛みなく、断固として、主張してきたし、現在も主張している。
    ソ連邦は、自由を愛する諸国民を侵略者の側からのあらゆる危険から守るという課題の抜本的な、解決に努力するとともに、同時に、全面完全軍縮のための闘争を行ってきた。侵略者のいかなる攻撃にも十分に対応できる準備ができているソ連邦は、同時に侵略の犠牲となり祖国の独立のために闘っている諸国民に即時全面的支援を与える用意を整えて、自国の国境の保全と不可侵を尊重する全ての国家との平和的かつ善隣的な関係をもつために努力することを基盤としてその対外政策を、常に組立ててきたし、現在もそうしている。
    上記の諸原則に立脚し、かつ多くの行動と文書に反映されているソ連邦が常にたゆみなく実施している政策に基づいて、ソ連邦政府はルースベルト米国大統領とチャーチル英国首相の宣言の基本的原則、現在の国際情勢において極めて大ぎな意義を有している主要な諸原則に同意することを表明する。
    (出典、ソ連条約集より訳出)

    (4)カイロ宣言(1943年)

    カイロ宣言

    (一九四三年十一月二十七日)

    「ローズヴェルト」大統領、介石大元帥及「チャーチル」総理大臣ハ各自ノ軍事及外交蒋顧問ト共ニ北「アフリカ」ニ於テ会議ヲ終了シ左ノ一般的声明発セラレタリ
    「各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ三大同盟国ハ海路、陸路及空路ニ依リ其ノ野蛮ナル敵国ニ対シ仮借ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ
    三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ズ又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ズ
    右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国ガ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満州、台湾及膨湖島ノ如き日本国ガ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在り日本国ハ又暴力及貪欲ニ依リ日本国ガ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルベシ
    前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス
    右ノ目的ヲ以テ右三大同盟国ハ同盟諸国中日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ日本国ノ無条件降伏ヲ齋スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スベシ」

    (5)ヤルタ会議における米ソ首脳発言(1945年)

    「極東の軍事問題につき幾つか議論した後、スターリン元帥は、ソ連邦の対日参戦のための政治的条件について議論したい旨述べた。彼は、この点につき既にハリマン大使と話してある旨述べた。
    大統領は、右会談に関する報告は受領しており、自分は終戦に際し樺太の南半分とクリル諸島がロシア側に引渡されることに何の問題もないであろうと思う旨述べた。
    (中略)
    スターリン元帥は、これらの条件が満たされない場合、自分とモロトフにとり、なぜロシアが対日戦争に参加しなければならないのかソヴィエト国民に説明するのが困難となるのは明らかである旨述べた。彼らは、ソ連邦の存在そのものを脅かしたドイツに対する戦争は明確に理解したが、何ら大きな問題を抱えている訳でもない国を相手になぜロシアが戦争に入るのか理解しないであろう。他方、彼は、もし政治的諸条件が満たされれば、国民は右に関わる国益を理解し、かかる決定を最高会議に説明することも格段に容易となろう、と述べた」。
    (米国外交文書、一九四五年、七百六十八-七百六十九頁、外務省仮訳)

    スターリンは、ソ連邦の対日参戦のための政治的条件についてはいかなる状況であるか承知したいと述べた。これは、彼即ちスターリンが、モスクワでハリマンと話した政治的諸問題のことである。
    ルーズヴェルトは、サハリン南部とクリル諸島はソ連邦に引渡されるであろうと答えた。
    (「三大連合国指導者のクリミア会議」、モスクワ、政治文献出版社、一九八四年、百二十九頁)

    (6)ヤルタ協定 (1945年)

     (一九四五年二月十一日)
    三大国、すなわちソヴィエト連邦、アメリカ合衆国及びグレート・ブリテンの指導者は、ソヴィエト連邦が、ドイツが降伏し、かつ、欧州における戦争が終了した後二箇月又は三箇月で、次のことを条件として、連合国に味方して日本国に対する戦争に参加すべきことを協定した。
    一外蒙古(蒙古人民共和国)の現状が維持されること。
    二千九百四年の日本国の背信的攻撃により侵害されたロシアの旧権利が次のとおり回されること。
    (a)樺太の南部及びこれに隣接するすべての諸島がソヴィエト連邦に返還されること。
    (b)大連港が国際化され同港におけるソヴィエト連邦の優先的利益が擁護されかつソヴィエト社会主義共和国連邦の海軍基地としての旅順口の租借権が回復されること。
    (c)東支鉄道及び大連への出口を提供する南満州鉄道が中ソ合同会社の設立により共同で運営されること。ただし、ソヴィエト連邦の優先的利益が擁護されること及び中国が満州における完全な主権を保持することが了解される。
    三千島列島がソヴィエト連邦に引き渡されること。
    前記の外蒙古並びに港及び鉄道に関する協定は、蒋介石大元帥の同意を必要とするものとする。大統領は、この同意を得るため、スターリン大元帥の勧告に基づき措置を執るものとする。
    三大国の首脳はこれらのソヴィエト連邦の要求が日本国が敗北した後に確実に満たされるべきことを合意した。
    ソヴィエト連邦は、中国を日本国の覊絆から解放する目的をもって自国の軍隊により中国を援助するため、ソヴィエト社会主義共和国連邦と中国との間の友好同盟条約を中国政府と締結する用意があることを表明する。
    ジェー・スターリン
    フランクリン・ディー・ルーズヴェルト
    ウィンストン・エス・チャーチル

    (7)ポツダム宣言(1945年)

    ポツダム宣言

    (一九四五年七月二十六日)
    一、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及「グレート・ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ
    二、合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ増強ヲ受ケ日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本国カ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ連合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ
    三、蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本国国民ニ対スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ現在日本国ニ対シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」国人民ノ土地、産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタル力ニ比シ測リ知レサル程更ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スベク又同様必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破壊ヲ意味スベシ
    四、無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国ガ引続キ統御セラルベキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国ガ履ムベキカヲ日本国ガ決定スベキ時期ハ到来セリ
    五、吾等ノ条件ハ左ノ如シ等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルベシ右ニ代ル条件存在セズ吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ズ
    六、吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐セラルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ
    七、右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ル迄ハ連合国ノ指定スベキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノニ指示スル基本的目茲的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ
    八「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国、並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ
    九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ
    十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ
    十一、日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルベシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許可サルベシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルベシ
    十二、前記諸目的ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ連合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ
    十三、吾等ハ日本国政府ガ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス

    (8)日本政府のポツダム宣言受諾通告(1945年)

    ポツダム宣言受諾通告

    (一九四五年八月十四日東郷外務大臣ヨリ在瑞西加瀬公使宛公電)

    米、英、蘇、支四國二封スル八月十四日附帝國政府通告
    「ポツダム」宣言ノ條項受諾ニスル八月十日附帝國政府ノ申入並ヒ二八月十一日附「バ關ーンズ」米國國務長官米英ソ支四國政府ノ回答二連シ帝國政府ハ右四國政府二封シ左發關通り通報スルノ光榮ヲ有ス
    一、天皇陛下ニオカセラレテハ「ポツダム」宣言ノ條項受諾ニスル詔書ヲ布セラレタ關發リ
    二、天皇陛下ニオカセラレテハソノ政府及ヒ大本営ニ封シ「ポツダム」宣言ノ諸規定ヲ寛施スル為必要トセラルヘキ條項ニ署名スルノ権限ヲ興へ且ツ保障セラルルノ用意アリ又陛下ニオカセラレテハ一切ノ日本國陸、海、空軍官憲及右官憲ノ指揮下ニ在ル一切ノ軍隊ニ封シ戦闘行為ヲ終止シ武器ヲ引渡シ前記條項寛施ノ為連合國最高司令官ノ要求スルコトアルヘキ命令ヲスルコトヲ命セラルルノ用意アリ發

    (9)日ソ中立条約(1941年)

    日本国及ソヴィエト連邦間中立条約

    一九四一年四月十三日「モスコー」ニ於テ署名
    一九四一年四月二十五日両国批准

    大日本帝国及ソヴィエト連邦ハ両国間ノ平和及友好ノ関係ヲ固ナラシムルノ希望二サ鞏促レ中立条約ヲ締結スルコトニ決シ左ノ如ク協定セリ
    第一条両締約国ハ両国間二平和及友好ノ関係ヲ維持シ相互ニ他方締約国ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スヘキコトヲ約ス
    第二条締約国ノ一方ヵ一又ハ二以上ノ第三国ヨリ軍事行動ノ対象卜為ル場合ニハ他方締約国ハ該紛争ノ全期間中中立ヲ守ルヘシ
    第三条本条約ハ両締約国ニ於テ其ノ批准ヲ了シタル日ヨリ実施セラルヘク且五年ノ期間効力ヲ有スヘシ両締約国ノ何レノ一方モ右期間満了ノ一年前ニ本条約ノ廃棄ヲ通告セサルトキハ本条約ハ次ノ五年間自動的二延長セラレタルモノト認メラレルヘシ
    第四条本条約ハ成ルヘク速ニ批准セラルヘシ批准書ノ交換ハ東京ニ於テ成ルヘク速ニ行ハルヘシ
    〔以下略〕

    松岡洋右
    建川美次
    ヴェー・モロトフ

    (10)日ソ中立条約の廃棄に関するソ連覚書(1945年)

    日ソ中立条約廃棄に関するソ連覚書

    (一九四五年四月五日)

    日「ソ」中立条約ハ独「ソ」戦争及日本ノ対米英戦争勃発前タル一九四一年四月十三日調印セラレタルモノナルカ爾来事態ハ根本的ニ変化シ日本ハ其ノ同盟国タル独逸ノ対「ソ」戦争遂行ヲ援助シ旦「ソ」連ノ同盟国タル米英卜交戦中ナリ斯ル状態二於テハ「ソ」日中立条約ハ其ノ意義ヲ喪失シ其ノ存続ハ不可能トナレリ
    依テ同条約第三条ノ規定二基キ「ソ」連政府ハ二日「ソ」中立条約ハ明年四月期限満了茲後延長セサル意向ナル旨宣言スルモノナリ

    (11)ソ連に対日宣戦布告(1945年)

    ソ連の対日宣戦布告

    (一九四五年八月八日)

    ヒットラー独逸ノ壊滅及ヒ降伏後ニオイテハ日本ノミカ引続き戦争ヲ継続シツツアル唯一ノ大国トナレリ、日本兵力ノ無条件降伏ニ関スル本年七月二十六日附ノ亜米利加合衆国、英国及ヒ支那三国ノ要求ハ日本ニヨリ、拒否セラレタリ、コレカタメ極東戦争ニ関シ日本政府ヨリソ連邦ニ対シナサレタル調停方ノ提案ハ総テノ根拠ヲ喪失スルモノナリ日本カ降伏ヲ拒否セルニ鑑ミ連合国ハ戦争終結ノ時間ヲ短縮シ、犠牲ノ数ヲ減縮シ且ツ全世界ニオケル速カナル平和ノ確立ニ貢献スルタメソ連府ニ対シ日本侵略者トノ戦争ニ参加スルヤウ申出テタリ
    総テノ同盟ノ義務ニ忠実ナルソ連政府ハ連合国ノ提案ヲ受理シ本年七月二十六日附ノ連合国宣言ニ加入セリ
    ノキソ連政府ノ政策ハ平和ノ到来ヲ早カラシメ今後ノ犠牲及ヒ苦難ヨリ諸国民ヲ解放斯如セシメ且ツ独逸カ無条件降伏拒否後体験セルキ危険ト破壊ヨリ日本国民ヲ免ルルコトヲ如得セシムル唯一ノ方法ナリトソ連政府ハ思考スルモノナリ右ノ次第ナルヲモツテソ連政府ハ明日即チ八月九日ヨリソ連邦ハ日本ト戦争状態ニアルモノト思考スルコトヲ宣言ス

    (12)連合軍最高指令部訓令(SCAPIN)第号(1946年)

    連合軍最高指令部訓令(SCAPIN)第六百七十七号(抜粋)

    (一九四六年一月二十九日)

    三この指令の目的から日本と言ふ場合は次の定義による。
    日本の範囲に含まれる地域として
    日本の四主要島(北海道、本州、四国、九州)と、対馬諸島、北緯三十度以北の琉球嶼(南西)諸島(口之島を除く)を含む約一千の隣接小島嶼
    目本の範囲から除かれる地域として
    (a) 欝陵島、竹島、済州島。(b) 北緯三〇度以南の琉球(南西)列島(口之島を含む)、伊豆、南方、小笠原、硫黄群島、及び大東群島、沖ノ鳥島、南鳥島、中ノ鳥島を含むその他の外廓太平洋全諸島(C) 千島列島、歯舞群島(水晶、勇留、秋勇留、志発、多楽島を含む)、色丹島
    六この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第八条にある小島の最終的決定に関嶼する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。
    (日本占領及管理重要文書集第一巻基本篇)

    (13)南サハリン州の設置に関するソ連邦最高会議幹部会令(1946年)

    ロシア共和国ハバロフスク地方の構成に入る南サハリン州の設置に関するソ連邦最高会議幹部令

    南サハリン及びクリル諸島の領域に豊原市を中心とする南サハリン州を設置し、これをロシア共和国ハバロフスク地方に編入する。

    ソ連邦最高会議幹部会議長
    エム・カリーニン
    ソ連邦最高会議幹部会書記
    ア・ゴルキン
    モスクワ、クレムリン一九四六年二月二日


4.サン・フランシスコ平和条約

    (1)サン・フランシスコ講和会議におけるダレス米国代表発言(1951年)

    米国代表ダレスの演説(抜粋)

    (一九五一年九月五日)

    第一章は、戦争状態を終了し、日本国民の完全なる主権を認めるものであります。その認められた主権は「日本国民の主権」である点に注意しましょう。日本主権の領域はどうでしょうか。第二章においてそれを取扱っております。日本は日本に関する限り六年前現実に実施されたポツダム降伏条項の領土規定を正式に承認しております。
    ポツダム降伏条項は、日本及び連合国が全体として拘束される平和条項の定義のみを規定しております。若干の連合国の間には若干の私的了解がありましたが、日本も又他の連合国もこれらの了解に拘束されたのではありません。従って、本条約は、日本の主権は本州、北海道、九州、四国及びその他の諸小島に限られるべきことを規定した降伏条項第八条を具体化しております。第二章第二条に包含されている放棄は、厳格に且つ慎重にその降伏条項を確認しています。第二条(C)に記載された千島列島という地理的名称が歯舞諸島を含むかどうかについて若干の質問がありました。歯舞を含まないというのが合衆国の見解であります。
    (外務省サン・フランシスコ会議議事録)

    (2)サン・フランシスコ講和会議におけるグロムイコ・ソ連代表発言(1951年)

    ソ連代表グロムイコの演説(抜粋)

    (一九五一年九月五日)

    対日平和条約は、当然、日本との講和に関連する幾多の領土問題を決定しなければならないのであります。米国、英国、中国及びソ連邦はこの点についても明確な責任を負担したのであります。これらの責任はカイロ宣言、ポツダム宣言、及びヤルタ協定中に述べられているのであります。
    これらの協定は中国から分離された領土に対する中国の、現在は中華人民共和国の絶対的に論争の余地のない権利を認めているのであります。台湾、湖諸島、西沙群島及びそ澎の他の中国領土の如き、中国の原領土で分離されたものが、中華人民共和国に返還さるべきであることは論議の余地のないところであります。
    樺太の南半部及び隣接諸島、並びに現在ソ連の主権下にある千島列島に対するソ連の領土権はこれまた論議の余地のないところであります。
    かくのごとく、対日平和条約を準備するに当って生ずる領土問題を解決するとともに、もしわれわれが日本が武力によって占領した諸地域に対する論議の余地なき国家の領土権から議論を進むべきものとするならば、条約はこの点に関し明確を欠いてはならないのであります。

    (中略)

    平和条約米英草案の領土問題に関する部分について、ソ連邦代表団は、日本軍国主義者達によって分割された台湾、湖島、西沙群島及びその他の島々のごとき、中国の領土の澎欠くことのできない部分の返還に対する中国の、議論の余地なき権利を、この草案がはなはだしく侵害するものであることをのべることが必要であると考えるのであります。草案は、これらの領土に対する権利を日本が放棄することに言及するだけで、これらの領土のそれ以上の運命については、故意に触れることを省略しているのであります。しかしながら、実際には、台湾及び前述の諸島は、アメリカ合衆国によって占拠され、合衆国は、審議中の平和条約草案の中でこの侵略的行動を合法化しようと欲しているのであります。ところで、これ等の領土の運命は、絶対的に明白なものでなければならないのであります。彼等はその土地の主人である中国民衆の手に返還されなければならないのであります。
    同様にして、既にソ連邦の主権下にある千島列島はもとより、南樺太及びそれに近接する諸島に関するソ連邦の主権をはなはだしく侵害しようとして、草案は、又もや日本のこれ等領土に対する権利、権原及び請求権の放棄に言及するにとどまり、これら領土の歴史的附属物及びソ連邦の領土のかかる部分に対する主権を承認すべき日本の当然の義務については何等ふれるところがないのであります。
    われわれは、妥当な時に、カイロ及びポツダム両宣言並びにヤルタ協定に署名した合衆国とグレート・ブリテンとが、領土問題についてかかる提案を示することによって、こ呈れ等の国際的協定によって約束した義務の由々しき侵犯の道を辿ったという事実について語ろうとはおもわないのであります。

    (中略)

    これを要するに、平和条約米英草案に関し、次にのべるような結論を引出すことが出来るのであります。
    一、草案は日本の軍国主義の再建と、日本の侵略国家への変質に備えてのいかなる保証をも含んでおりません。草案は、軍国主義者日本による侵略をった国々の安全を確保する蒙ためのいかなる保証をも含んでおりません。草案は日本の軍国主義の再建のための条件を創り上げ、新しい日本の侵略の危険を創っております。
    ニ、草案は、事実上外国占領軍の撤退について何等の規定もしておりません。反対に平和条約署名後においてなお日本領土上に外国の武装軍隊が駐屯することと、日本国内に外国の軍事基地を存置することを保証しております。草案は、日本の自己防衛に名をかりて、日本が合衆国との侵略的な軍事同盟に参加することを規定しております。
    三、草案は、単に、軍国主義者日本に対する戦争に参加した国々のうちのどれかを目標としてなされたいかなる提携にも参加してはならないという日本の負うべき義務を設定していないのみならず、反対に、合衆国の保護をうけてつくられた極東における侵略的ブロックに、日本が参加する道を開いているのであります。
    四、草案は、日本の民主化について、すなわち日本における戦前のファシスト体制の復活にとって直接の脅威となる、民主主義的な権利の日本人民に対する保証について、いかなる規定も含んでいないのであります。
    五、草案は、中国の欠くことのできない部分、すなわち日本の侵略の結果中国から分割された、台湾、湖島、西沙群島及びその他の領土に対する中国の正当なる権利をはなはだ澎しく侵害するものであります。
    六、条約草案は、ヤルタ協定で合衆国とグレート・ブリテンとが、樺太のソ連邦への返還保証した義務に矛盾するものであります。
    七、外国の、先ず第一にアメリカの独占のためにこれらの国が占領期間中に獲得した特権を確保すべく、無数の経済に関する条項が立案されております。日本経済は、これら外国の独占に奴隷のごとく依存する状態におかれているのであります。
    八、草案は、日本の占領に苦しんだ国々がった損害に対して日本がなすべき賠償に関し、蒙それらの国が有する合法的な請求権を無視しているのであります。同時に、直接日本人の労働によって損害を賠償することを規定して、この草案は、日本に奴隷のような賠償の形式を課しているのであります。
    九、平和条約米英草案は、平和の条約ではなくして、極東における新しい戦争の準備のための条約であります。
    (外務省サン・フランシスコ会議議事録)

    (3)サン・フランシスコ講和会議における吉田日本代表発言(1951年)

    日本代表吉田首相の演説(抜粋)

    (一九五一年九月七日)

    ここに提示された平和条約は、懲罰的な条項や報復的な条項を含まず、わが国民に恒久的な制限を課すこともなく日本に完全な主権と平等と自由とを回復し、日本を自由且つ平等の一員として国際社会に迎えるものであります。復讐の条約ではなく「和解と信頼」、の文書であります。日本全権はこの公平寛大なる平和条約を欣然受諾致します。
    過去数日にわたってこの会議の席上若干の代表団は、この条約に対して批判と苦情を表明されましたが、多数国間における平和解決にあっては、すべての国を完全に満足させることは、不可能であります。この平和条約を欣然受諾するわれわれ日本人すらも、若干の点について苦悩と憂慮を感ずることを否定できないのであります。この条約は、公正にして史上かって見ざる寛大なものであります。従って日本のおかれている地位を十分承知しておりますが敢えて数点に付全権各位の注意を喚起せざるを得ないのはわが国民に対する私の責任と存ずるからであります。
    第一は領土の処分問題であります。

    (中略)

    千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものだとのソ連全権の主張は、承服いたしかねます。
    日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアもなんらの異議を挿さまなかったのであります。ただ得撫以北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混住の地でありました。一八七五年五月七日、日露両国政府は、平和的な外交交渉を通じて樺太南部は露領とし、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話合をつけたのであります。名は代償でありますが、事実は樺太南部を譲渡して交渉の妥結を計ったのであります。その後樺太南部は、一九○五年九月五日ルーズヴェルト・アメリカ合衆国大統領の仲介によって結ばれたポーツマス平和条約で日本領となったのであります。
    千島列島および樺太南部は、日本降伏直後の一九四五年九月二十日一方的にソ連領に収容されたのであります。
    また、日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島および歯舞諸島も終戦当時会々日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります。

    (4)サン・フランシスコ平和条約第2条及び25第条(1951年)

    日本国との平和条約(抜粋)

    一九五一年九月八日署名

    第二条
    (a)日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
    (b)日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
    (c)日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
    (d)日本国は、国際連盟の委任統治制度に関連するすべての権利、権原及び請求権を放棄し、且つ、以前に日本国の委任統治の下にあった太平洋の諸島に信託統治制度を及ぼす千九百四十七年四月二日の国際連合安全保障理事会の行動を受諾する。
    (e)日本国は、日本国民の活動に由来するか又は他に由来するかを問わず、南極地域のいずれの部分に対する権利若しくは権原又はいずれの部分に関する利益についても、すべての請求権を放棄する。
    (f)日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

    第二十五条
    この条約の適用上、連合国とは、日本国と戦争していた国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていたものをいう。但し、各場合に当国がこの条約に署名し該且つこれを批准したことを条件とする。第二十一条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益も与えるものではない。また、日本国のいかなる権利、権原又は利益も、この条約のいかなる規定によっても前記のとおり定義された連合国の一国でない国のために減損され、又は害されるものとみなしてはならない。


5.日ソ国交正常化交渉及びそれ以降

    (1)松本日本国政府全権委員からグロムイコ・ソヴィエト連邦第一外務次官にあてた書簡 (1956年)

    書簡をもって啓上いたします。
    本全権は、千九百五十六年九月十一日付鳩山総理大臣の書簡とこれに対する同年九月十三日付ブルガーニン議長の返簡に言及し、次のとおり申し述べる光栄を有します。
    前記鳩山総理大臣の書簡に明らかにせられたとおり、日本国政府は、現在は、平和条約を締結することなく、日ソ関係の正常化に関し、モスクワにて交渉に入る用意がある次第でありますが、この交渉の結果外交関係が再開せられた後といえども、日本国政府は、日ソ両国の関係が、領土問題をも含む正式の平和条約の基礎の下に、より確固たるものに発展することがきわめて望ましいものであると考える次第であります。
    これに関して、日本国政府は、領土問題を含む平和条約締結に関する交渉は両国間の正常な外交関係の再開後に継続せられるものと了解するものであります。
    鳩山総理大臣の書簡により交渉に入るに当り、この点についてソ連邦政府においても同様の意図を有せられることをあらかじめ確認しうれば幸甚に存ずる次第であります。
    本全権は、以上を申し進めるに際し、ここに閣下に向って敬意を表します。
    千九百五十六年九月二十九日
    日本国政府全権委員松本俊一
    ソヴィエト社会主義共和国連邦第一外務次官
    ア・ア・グロムイコ閣下

    (2)グロムイコ・ソヴィエト連邦第一外務次官から松本日本国全権委員にあてた書簡 (1956年)

    (仮訳)

    書簡をもって啓上いたします。
    本次官は、千九百五十六年九月二十九日付の閣下の次のとおりの書簡を受領したことを確認する光栄を有します。

    [日本側書簡]

    これに関連して本次官は、ソヴィエト社会主義共和国連邦政府の委任により、次のとおり申し述べる光栄を有します。すなわち、ソヴィエト政府は、前記の日本国政府の見解を了承し、両国間の正常な外交関係が再開された後、領土問題をも含む平和条約締結に関する交渉を継続することに同意することを言明します。
    本次官は、以上を申し進めるに際し、閣下に向って敬意を表します。
    千九百五十六年九月二十九日モスクワにおいて
    ソヴィエト社会主義共和国連邦第一外務次官
    ア・グロムイコ

    日本国政府全権委員

    松本俊一閣下

    (3) 日ソ共同宣言第9項(1956年)

    日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言(抜粋)

    昭和三十一年十月十九日モスクワで署名
    同        年十二月七日批准の閣議決定
    同        年同月十二日東京で批准書交換

    九日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。
    ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。

    (4)ソ連政府の対日覚書(1960年)

    ソ連政府の日本政府に対する覚書(抜粋)

    (一九六○年一月二十七日)

    ソ連邦は、極東における平和機構を阻害し、ソ日関係の発展にとって支障となる新しい軍事条約が日本によって締結せられるような措置を黙過することはもちろんできない。この条約が事実上日本の独立を失わしめ、日本の降服の結果日本に駐屯している外国軍隊が日本領土に駐屯を続けることに関連して、歯舞、および色丹諸島を日本に引き渡すというソ連政府の約束の実現を不可能とする新しい情勢がつくり出されている。
    平和条約調印後、日本に対し右諸島を引き渡すことを承諾したのは、ソ連政府が日本の希望に応じ、ソ日交渉当時日本政府によって表明せられた日本国の国民的利益と平和愛好の意図を考慮したがためである。
    しかし、ソ連政府は、日本政府によって調印せられた新条約がソ連邦と中華人民共和国に向けられたものであることを考慮し、これらの諸島を日本に引き渡すことによって外国軍隊によって使用せられる領土が拡大せられるがごときことを促進することはできない。
    よってソ連政府は、日本領土からの全外国軍隊の撤退およびソ日間平和条約の調印を条件としてのみ歯舞および色丹が一九五六年十月十九日付ソ日共同宣言によって規定されたとおり、日本に引き渡されるだろうということを声明することを必要と考える。

    (5)日本政府の対ソ覚書(1960年)

    日本政府のソ連政府に対する覚書(抜粋)

    (一九六○年二月五日)

    日本国政府は最近日米両国間に調印された相互協力および安全保障に関する条約に関連 して、一月二十七日グロムイコ・ソ連邦外相が在ソ門脇大使に手交した覚書に対し、日本 国の立場を次のとおり鮮明せんとするものである。[中略]

    ソ連邦政府が、今回の覚書において日米両国間の新条約と歯舞群島および色丹島の引き渡し問題とを関連させていることは極めて不可解である。歯舞群島、色丹島については日ソ共同宣言において「ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえ、かつ日本国の利益を考慮して歯舞群島および色丹島を日本国に引渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」と明確に規定されている。。

    この共同宣言は日ソ両国関係の基本を律する国際取極であり、両国それぞれの最高機関によって批准された正式の国際文書である。この厳粛な国際約束の内容を一方的に変更しえないことはここに論ずるまでもない。さらにまた日ソ共同宣言が調印された際、すでに無期限に有効な現行安全保障条約が存在し、日本国に外国軍隊が駐留しており、同宣言はこれを前提とした上で締結されたものである。この事実からしても、日ソ共同宣言における合意がいささかの影響をも受ける事由は存しない。日本国政府は、領土問題について共同宣言の規定に新しい条件を付し、これによって宣言の内容を変更せんとするソ連邦の態度はこれを承認することができない。またわが国は、歯舞群島、色丹島のみならず、他の日本固有の領土の返還をあくまでも主張するものである。[後略]

    (6)日ソ共同声明(1973年)

    日ソ共同声明(抜粋)

    (一九七三年十月十日)

    一双方は、第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して平和条約を締結することが両国間の真の善隣友好関係の確立に寄与することを認識し、平和条約の内容に関する諸問題について交渉した。双方は、一九七四年の適当な時期に両国間で平和条約の締結交渉を継続することに合意した。


6.ゴルバチョフ・ソ連邦大統領訪日及びそれ以降

    (1)日ソ共同声明(1991年)

    日ソ共同声明(抜粋)

    (一九九一年四月十八日)

    一エム・エス・ゴルバチョフ・ソヴィエト社会主義共和国連邦大統領は、日本国政府の招待により、一九九一年四月十六日から十九日まで日本国を公式訪問した。エム・エス・ゴルバチョフ・ソヴィエト社会主義共和国連邦大統領には、ア・ア・ベススメルトヌィフ ・ソヴィエト社会主義共和国連邦外務大臣その他の政府関係者が同行した。

    二エム・エス・ゴルバチョフ・ソヴィエト社会主義共和国連邦大統領夫妻は、四月十六日、皇居にて天皇、皇后両陛下と会見した。

    三エム・エス・ゴルバチョフ・ソヴィエト社会主義共和国連邦大統領は、海部俊樹日本国内閣総理大臣と、平和条約締結交渉を含む日ソ間の諸問題及び相互に関心を有する主要な国際問題について率直かつ建設的な話し合いを行った。エム・エス・ゴルバチョフ・ソヴィエト社会主義共和国連邦大統領は、海部俊樹日本国内閣総理大臣に対し、ソヴィエト社会主義共和国連邦を公式訪問するよう招待し、この招待は、謝意をもって受諾された。訪問の具体的時期は、外交経路を通じて合意される。

    四海部俊樹日本国内閣総理大臣及びエム・エス・ゴルバチョフ・ソヴィエト社会主義共和国連邦大統領は、歯舞群島、色丹島、国後島および択捉島の帰属についての双方の立場を考慮しつつ領土画定の問題を含む日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約の作成と締結に関する諸問題の全体について詳細かつ徹底的な話し合いを行った。

    これまでに行われた共同作業特に最高レベルでの交渉により一連の概念的な考え方すなわち、平和条約が、領土問題の解決を含む最終的な戦後処理の文書であるべきこと、友好的な基盤の上に日ソ関係の長期的な展望を開くべきこと及び相手側の安全保障を害すべきでないことを確認するに至った。

    ソ連側は、日本国の住民と上記の諸島の住民との間の交流の拡大、日本国民によるこれらの諸島訪問の簡素化された無査証の枠組みの設定、この地域における共同の互恵的経済活動の開始及びこれらの諸島に配備されたソ連の軍事力の削減に関する措置を近い将来とる旨の提案を行った。日本側は、これらの問題につき今後更に話し合うこととしたい旨述べた。

    総理大臣及び大統領は、会談において、平和条約の準備を完了させるための作業を加速することが第一義的に重要であることを強調するとともに、この目的のため、日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦が戦争状態の終了及び外交関係の回復を共同で宣言した一九五六年以来長年にわたって二国間交渉を通じて蓄積されたすべての肯定的要素を活用しつつ建設的かつ精力的に作業するとの確固たる意思を表明した。

    同時に、日本国と日本国に隣接するロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国を含むソヴィエト社会主義共和国連邦との間の相互関係における善隣、互恵及び信頼の雰囲気の中で行われる貿易経済、科学技術及び政治の分野での並びに社会活動、文化、教育、観光、スポーツ、両国国民間の広範で自由な往来を通じての建設的な協力の展開が、合目的的であると認められた。

    (2) エリツィン・ロシア大統領のロシア国民への手紙(1991年)

    (一九九一年十一月十六日)

    親愛なる祖国民へ
    南クリル諸島の運命に対する憂慮を表明した貴方がたの手紙を受け取り、ロシア連邦の立場を説明することが私の義務であると考えます。
    私は、今の世代のロシア人には、以前の我が国の指導者が行った政治的な冒険に対する責任はないとの点につき、貴方がたに全く同意します。同時に、新しいロシアの指導部が負う無条件の義務は、今日なおロシアと国際社会との正常な相互関係の発展の障害となっている、過去の政治から踏襲されてきた問題の解決方法を探求することにあります。国際社会の一員としての民主主義的なロシアの将来及びその国際的な権威は、結局のところ、困難な過去の遺産をいかに早く我々が克服し、国際社会の規範を受け入れることが出来るか、すなわち、合法性、正義、国際法の諸原則の無条件の遵守というものを自らの政策の規範となし得るか、ということに多くかかっているのです。
    近い将来において我々が解決しなければならない問題の一つに、日本との関係における最終的な戦後処理の達成があります。私は、ロシア人の利益の観点からみて、日本との間に平和条約がないために両国関係が事実上凍結しているという状態に今後とも甘んじていくということは、許し難いことであると確信しています。
    周知のとおり、この条約締結への主な障害として、ロシアと日本との間の境界確定問題が提起されています。この問題は、長い歴史を有していますが、最近、ロシア国民の幅広い注意と様々な感情がこの問題に集まって来ています。我々は、この問題に対する自らのアプローチにおいて、正義と人道主義に則りつつ、南クリルの住民をはじめとするロシア人の利益と尊厳を強く守っていくつもりです。私は、貴方がたに対し、南クリルの住民の誰一人の将来も壊さないようにすることを確約します。歴史的に積み重ねられて来た現実を考慮し、その社会・経済及び財産上の利益が十分に確保されるでしょう。
    日本との間でいかなる合意が行われる場合も、その出発点となる原則は、我々の単一かつ不可分の偉大な祖国の幸福に対する配慮であります。私は、我が国の歴史上初めて民主的に選ばれた大統領として、貴方がたに対し、ロシアの世論が、自国の政府の意図や計画についての情報を適時に、かつ十分に与えられることを確約します。貴方がたの理解と支持を衷心より期待しています。
    B ・エリツィン